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神風連資料館
熊本市黒髪(くろかみ)にある「神風連資料館」は、明治9年(1876年)に熊本で起こった「神風連の変」で敗れた志士たちの霊が眠る桜山神社(さくらやまじんじゃ)の境内にあります。「神風連」は、熊本市内田町(うちだまち)にある新開大神宮(しんかいだいじんぐう)の宮司・太田黒伴雄(おおたぐろともお)を首領とする志士の集まりで、神道と尊皇を重んじ、自らを「敬神党(けいしんとう)」と呼んでいました。彼らは、明治維新後急速に欧米化する政府と、日本古来の伝統や文化の崩壊を憂慮し、攘夷論者を取り締まるために置かれた鎮台(ちんだい)の一つ、熊本鎮台を襲撃。それが「神風連の変」と呼ばれる事件です。太田黒伴雄以下決起した170名が熊本鎮台を襲撃しますが、120余名が討死、または自決して果てます。資料館には、信仰を重んじ、王政復古による日本古来の神道に基づいた政治を目指そうとした「神風連」の重要な資料や貴重な遺品が展示されています。
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武蔵の引導石
寛永17年(1640年)、57歳の時に細川忠利(ほそかわただとし)公より客分として熊本に招かれた宮本武蔵(みやもとむさし)。正保2年(1645年)に62歳で生涯を閉じるまでの5年間を熊本で過ごしました。細川公に与えられた千葉城(ちばじょう)跡の屋敷で息を引き取った武蔵の葬儀は、熊本藩により盛大にとり行われたといわれています。旧国道57号から弓削(ゆげ)に向かう葬儀の途中、禅の道を通じて武蔵と親交の深かった細川家の菩提寺、泰勝寺(たいしょうじ)の二代目和尚・春山和尚が待っていました(泰勝寺の初代和尚・大渕玄弘和尚ではないかという説もあり)。そのとき、棺はいったん参道の石の上に置かれ、和尚が成仏するよう引導を渡すと、にわかに雷鳴が鳴り渡ったと伝えられています。以来、この石は引導石と呼ばれるようになりました。大人3人が両手をまわしたほどの大きな石は、今も国道沿いにひっそりと佇んでいます。
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立田自然公園
立田山麓にある、肥後藩主・細川家の菩提寺泰勝寺(たいしょうじ)跡です。細川家初代藤孝(ふじたか)夫妻と二代目忠興(ただおき)とガラシャ夫人の墓「四つ御廟(ごびょう)」や、武人でありながら茶道にかけては国内随一といわれた細川忠興の原図に基づいて復元された茶室「仰松軒(こうしょうけん)」などがあります。茶室「仰松軒」にある手水鉢(ちょうずばち)は、京都で細川忠興が愛用したもので、豊臣秀吉(とよとみひでよし)や茶の師・千利休(せんのりきゅう)も使用したと伝えられます。歴代の細川藩主は、この手水鉢を参勤交代の道中にも持参してその風情をめでたといわれ、四季折々に茶会が催されています。
また、細川忠利(ほそかわただとし)公から客分として招かれた宮本武蔵(みやもとむさし)の墓もあるといわれています。宮本武蔵の墓は全国に5ヶ所あるといわれ、そのうちの3ケ所は、正保2年(1645年)に生涯を閉じるまで晩年を過ごした熊本にあります。ひとつは、この立田自然公園内泰勝寺(たいしょうじ)跡。二つ目は、老杉が立ち並ぶ大津街道(旧国道57号沿い)にある「武蔵塚(むさしづか)」。「細川公参勤の節には御行列を地下にて拝し、御武運を護らん」(細川公の参勤交代をかげから拝し、護りたい)という武蔵の遺言に従って、甲冑(かっちゅう)を着け太刀を持った姿で埋葬されているといわれています。「新免武蔵居士石塔」と読める苔むした墓石が建っており、現在では武蔵の銅像が建つ「武蔵塚公園」として整備されています。三つ目は、市内西部の島崎町(しまさきまち)にある「西の武蔵塚」です。今でもどの説が正しいのかは、謎のままです。 緑に囲まれたこの公園は、昭和30年(1955年)に細川家から熊本市に貸与され、以後立田自然公園として一般に公開、市民の憩いの場として親しまれています。泰勝寺跡は国指定史跡にも指定されています。 -
つつじヶ丘横穴群
自然の崖面に横に穴を掘って造る横穴式の墓地は共同墓地と考えられており、立田山(たつだやま)南麓には、古墳時代の終わり頃の横穴群が集まっています。なかでも、このつつじケ丘横穴群は、前庭部分を共有する横穴のグループが15群確認されており、一つの前庭部を共有する横穴群は同じ一族の墓であるともいわれています。人骨をはじめ、須恵器(すえき)、土師器(はじき)、鉄製品や装身具などが発見されており、一族の構成や埋葬の制度などを解明する貴重な資料です。
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小峯墓地の石仏(八雲関連)
熊本大学の裏、立田山(たつだやま)の上り口にある小峯墓地は、立田山の遊歩道への通り道としても、多くの市民に親しまれています。この墓地の中でひっそりと立っているのがこの「鼻かけ地蔵」。鼻がかけていることからそう呼ばれています。旧制第五高等学校(現在の熊本大学)の教師だった小泉八雲(こいずみやぐも)別名ラフカディオ・ハーンは、この「鼻かけ地蔵」をことのほか気に入り、時間があると小峯墓地に行っていたそうです。
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リデル、ライト両女史記念館
※休館中ハンナ・リデルは明治24(1891)年英国国教会の宣教師として来日し、2年後に熊本に来ました。ある時、咲き誇る桜並木の下にうずくまるハンセン病患者たちの悲惨さに心を打たれ救済にあたる覚悟をしたのでした。そのため、英国、日本の教会、政財界に寄付を募り、明治28(1895)年回春病院を創立しました。リデルの死後、二代目の院長として姪のエダ・ハンナ・ライトがその職務を遂行しました。しかし、太平洋戦争の始まる直前の昭和16(1941)年2月3日回春病院が閉鎖され、ライトは国外追放となりました。しかし戦後再び来日し、龍田寮の子どもたちの世話をして過ごしました。
この記念館には、ハンセン病患者のために生涯を捧げた両女史の遺品や政財界に働きかけた文書、貞明皇后からの手紙、回春病院内の患者達の生活を知る写真などが展示されています。当時病菌を研究するために建てられた研究所が、現在の「リデル、ライト両女史記念館」となっています。 -
五高記念館
※休館中小泉八雲(こいずみやぐも)や夏目漱石(なつめそうせき)が教鞭をとった旧制第五高等学校(現在の熊本大学)の前身である、第五高等中学校の校舎として明治22年(1889年)に完成した建物です。「ナンバースクール」と呼ばれていた旧制高等学校である第一高(現在の東京大学)から第八高(現在の名古屋大学)のうち、当時の校舎が同じ場所に同じ姿で現存するのはこの五高記念館のみ。化学実験室、通称赤門(あかもん)と呼ばれる正門、そして校舎の設計図とともに国の重要文化財に指定されています。100年以上もの長い間、赤レンガの美しい姿を保つこの英国風の学舎は、熊本大学のシンボルとして学生や熊本市民にも親しまれ、平成5年に記念館として一般公開されるようになりました。内部には、復元教室と6つの展示室があり、五高の歴史や赤レンガの校舎の構造、夏目漱石が作った試験問題など著名な教授陣に関する貴重な資料のほか、各界で活躍した卒業生に関する資料などが展示されています。